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結婚観
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キリスト教
神の栄光と人間の和とに仕えるべきものが、無政府的な力、すなわち結合するよりは分離し、われわれを自由にする代りにわれわれに取り愚くところの力となる。かくて、なぜ多くの男女が彼らを奴隷たらしめんとするこの暴君を呪うに至るかが理解ざれる。なぜ道徳主義者がそれと戦い、秩序ある人間生活にとって必要な法律に強いて従わしめんとしたかが理解される。しかも人はまた彼らの努力が無駄であることも明らかに知る。真の暴君はいかなる法律をも受けいれな「い。なすべき唯一の手段は彼から権力を奪い、服,従すべき一市民として生きねばならないようにすることである。
しかしてそのためには、彼には法律でなく、彼より強い主人が必要である。律法、すなわち原理の適用によっては、人間の小細工によっては、または単純な抑圧によっては》われわれはただずるずるど沼の中に落ちこむばかりであるというのが、聖書のわれわれに教えるところである。もしわれわれの行動がいぐらか放縦でなくなり、、いくらか丹なみになってきても、われわれの内的生命が、意識するど否とにかかわらず、前よりも一層性の暴威に毒されるとするならば、何のうるどころがあるだろう。聖書にどっては、問題はわれわれが何をなすかといケことのみならず、またわれわれが何であるかということであるイエスは、われわれの行動によってさばき給うと同様、われわれの意志によってさばぎ給う。「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」。
われわれの性生活の悲劇はまさにわれわれの色欲に存する。換言すれば、われわれの心が本能の導くままに委ねられること、われわれが本能をして自らの生活の指導と統御に当らせる事実に存する。革命が必要である。別な,主がこれを担当することが必要である。それが聖書の教えるところである。その主とは聖霊すなわち働き給う神であり、活けるキリストである。「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」。
聖霊によって歩むものはもはや肉にあらず、いかなる性をも持たないといっているのではない。それはもはや肉の欲を遂げないであろうというのであるqすなわち、彼らの肉、彼らの人間性、彼らの本能は、もう一人の他者の欲望を満たすであろう。彼らの性欲は、本来の目的、すなわち神によって与えられた他者との深い交わりに向かって定められた性欲となるであろう。しかしながらもし神がわれわれにかよヶな結合を与え給わないならば(もしくは未だ与え給うていないならば)、すなわち結婚して後も結婚しない時もわれわれが孤独であるならば、そしてわれわれの肉体的存在が挙げてこの欲望の満足を求めるならばどうであろうか。
その時は、われわれはその試練を受けて、祈りと戦いの中にそれに耐え、あらゆる試練の背後にある神の恵み深き御意志を理解せんことを努め、またわれわれはよしやそれから背いたとしても、戒めめ神聖さを認め、われわれが神の前に罪を告白しさえするなら、神はゆるしを与え給うことを知るべぎである。
罪よりもさら北由々しいことがただ一つある。それは、神の戒めの正しさを否定することによって自らを義となす頑なな心である。聖書の世界においてわれわれを感動せしめることは、そこには多くの罪人、また性生活において神の秩序に反する罪を犯した人がいるのであるが、しかもそこでは神の前にその罪を告白しない人はないということである。これは自由放任主義の道徳であろうか。神の聖なることと罪の現実とがキリスト者にとって何を意味するかを全然知らない人々にとっては、そう思われるのももっともである。しかし、そうでない人々にとっては、すなわち神に面接した人々にとっては、これこそ彼ら自身の心や世界の無秩序から免れる唯一の道であることが明らかである。
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